■追証

追加保証金のこと。 慶雲3年(706年)に彫られたとされる「法起寺塔露盤銘」に「上宮太子聖徳皇」とあることについて、不用品回収では法起寺塔露盤銘は暦仁一年(1238年)頃に顕真が著した『聖徳太子伝私記(古今目録抄〔法隆寺本〕)』にしか見出せないことなどから偽作とする。但し、全文の引用は無いものの、嘉禄三年(1227年)に四天王寺東僧坊の中明が著した『太子伝古今目録抄(四天王寺本)』には「法起寺塔露盤銘云上宮太子聖徳皇壬午年二月廿二日崩云云」と記されている[39]。 また直木孝次郎は『万葉集』と飛鳥・平城京跡の出土木簡における用例の検討から「露盤銘の全文については筆写上の誤りを含めて疑問点はあるであろうが、『聖徳皇』は鎌倉時代の偽作ではないと考える」とする[40]。また「日本書紀が成立する14年前に作られた法起寺の塔露盤銘には聖徳皇という言葉があり、書紀で聖徳太子を創作したとする点は疑問。露銘板を偽作とする大山氏の説は横浜 マンションに頼る所が多く、論証不十分。」とする[41]。 ウィークリーマンションにおける聖徳太子像について、大山説は藤原不比等と長屋王の意向を受けて、僧道慈(在唐17年の後、718年に帰国した)が創作したとする。しかし、森博達は「推古紀」を含む日本書紀巻22は中国音による表記の巻(渡来唐人の述作)α群ではなく、日本音の表記の巻(日本人新羅留学僧らの述作)β群に属するとする。「推古紀」は漢字、漢文の意味及び用法の誤用が多く、「推古紀」の作者を17年の間唐で学んだ道慈とする大山説には批判がある。森博達は文武朝(697年〜707年)に文章博士の山田史御方(やまだのふひとみかた)がβ群の述作を開始したとする[42]。 冷凍おせち(713年-717年頃の成立とされる)印南郡大國里条にある生石神社(おうしこじんじゃ)の「石の宝殿(石宝殿)」についての記述に、「原の南に作石あり。形、屋の如し。長さ二丈(つえ)、廣さ一丈五尺(さか、尺または咫)、高さもかくの如し。名號を大石といふ。傳へていへらく、聖徳の王の御世、弓削の大連の造れる石なり」とあり、「弓削の大連」は物部守屋、「聖徳の王(聖徳王)」は厩戸皇子[43]と考えられることから、『日本書紀』(養老4年、720年)が成立する以前に厩戸皇子が「聖徳王」と呼称されていたとする論がある。大宝令の注釈書『古記』(天平10年、738年頃)には上宮太子(厩戸皇子)の諡号を聖徳王としたとある。 『播磨国風土記』二?里驛家 大國里 「池之原 原南有作石 形如屋 長二丈 廣一丈五尺 高亦如之 名號曰 大石 傳云 聖徳王御世 ?? 弓削大連 守屋 所造之石也」 『上宮聖徳法王帝説』巻頭に記述されている聖徳太子の系譜について、家永三郎は『おそくとも大宝(701〜704)までは下らぬ時期に成立した』として、記紀成立よりも古い資料によるとしている[44]。 聖徳太子即位説 「聖徳太子は即位して大王となった」とする説もある。 「聖徳太子は観音菩薩の生まれ変わりである」として、太子自身を信仰対象にした例は古くからあるが、特に室町時代の終わり頃から、太子の忌日と言われる2月22日を「太子講」の日と定め、大工や木工職人の間で講が行なわれるようになった。これは、四天王寺や法隆寺などの巨大建築に太子が関わり諸職を定めたたという説から、建築、木工の守護神として崇拝されたことが発端である。さらに江戸時代には大工らの他に左官や桶職人、鍛冶職人など、様々な職種の職人集団により太子講は盛んに営まれるようになった[45]。 聖徳太子が登場する作品 小説 黒岩重吾『聖徳太子 日と影の王子』上・下(文藝春秋、1987年) 黒岩重吾『斑鳩王の慟哭』(中央公論社、1995年) 町井登志夫『爆撃聖徳太子』(角川春樹事務所/ハルキ・ノベルス、2004年) 豊田有恒『崇峻天皇暗殺事件』(1987年、講談社) 豊田有恒『聖徳太子の叛乱』(1991年、コーエー) 漫画 ムロタニツネ象『聖徳太子 仏教伝来と法隆寺』(学習研究社/図解まんが日本史、1978年)- 厩戸皇子の死後、蘇我氏の専横などを経て、蘇我入鹿が暗殺される所で完結する。 山岸凉子『日出処の天子』(白泉社/花とゆめコミックス、1981年)- 推古天皇の摂政となり、遣隋使構想を立てる所までを描く。「聖徳太子にまつわる伝説」をストーリーに織り込んでいる。『馬屋古女王』(短編)は続編に当たる。 池田理代子『聖徳太子』(創隆社、1992年-1994年)- 厩戸皇子像は『日本書紀』に描かれる史実に近い。ムロタニ作品同様、蘇我氏本家の滅亡で完結する。 滝沢解原作、ふくしま政美劇画『超劇画聖徳太子』(太田出版/QJマンガ選書、1999年)-所謂「カルト劇画」の一つ。 荻野真『夜叉鴉』(集英社/ヤングジャンプ・コミックス、1997年) 増田こうすけ『増田こうすけ劇場 ギャグマンガ日和』(集英社/ジャンプ・コミックス、2000年-)現在ジャンプスクエアにて連載中。パロディものである。 ドラマ 『聖徳太子』(NHK、2001年) - 脚本 : 池端俊策、厩戸皇子:本木雅弘)- 太子の青年時代を中心とした政治劇で、太子を人並み外れた聴力や記憶力をもち唐言葉(朝鮮語)をも操る超人的人物として描きつつも、人間的弱みのある人物として描くドラマ。 『聖徳太子の超改革』(テレビ朝日、2007年)-原案:堺屋太一、ナビゲーター:北大路欣也、聖徳太子:武田真治 ほか 脚注 関晃は次のように解説する。「推古朝の政治は基本的には蘇我氏の政治であって,女帝も太子も蘇我氏に対してきわめて協調的であったといってよい。したがって,この時期に多く見られる大陸の文物・制度の影響を強く受けた斬新な政策はみな太子の独自の見識から出たものであり,とくにその中の冠位十二階の制定,十七条憲法の作成, 遣隋使の派遣,天皇記 国記 以下の史書の編纂などは,蘇我氏権力を否定し,律令制を指向する性格のものだったとする見方が一般化しているが,これらもすべて基本的には太子の協力の下に行われた蘇我氏の政治の一環とみるべきものである。(『世界大百科事典第二版』平凡社)」また、内藤湖南は「日出處天子致書日沒處天子無恙云云」の文言について聖徳太子の創作と推定している。「それに國書の如きも隋書に載れる 日出處天子致書日沒處天子無恙云々 の如きは、其の語氣から察するに、恐らく太子自ら筆を執られたものであつたらしく、全然對等の詞を用ひられたので、隋の煬帝の如き、久しく分離した支那を統一したと謂ふ自尊心を持つて居る天子をして、從來に例の無い無禮な國書だと驚かしめたのである。」「聖徳太子」『内藤湖南全集第九巻』(筑摩書房 1976年) 荒木敏夫は皇太子制を飛鳥浄御原令の成立として厩戸皇子の立太子に疑問を呈する(『日本古代の皇太子』(吉川弘文館、1985年))が、河内祥輔は皇太子の称の有無とは別に、厩戸皇子の父・用明天皇は非皇族(蘇我氏)を母に持った竹田皇子の成人までの「中継ぎ」の天皇であったために、本来ならば厩戸皇子ら子孫への直系継承権を有していなかったが、竹田皇子の急逝後に竹田皇子の母后(推古天皇)が甥である厩戸皇子を新たな後継者とするために、自ら即位して厩戸皇子を後継者に指名(後世の立太子に相当)する必要があったとする。これによって用明天皇系である厩戸皇子(聖徳太子)は直系(敏達天皇系)に準じる者として皇位継承権を得たが、指名者である推古天皇が没するまでその地位に留まらざるを得なくなった(結果論としては天皇に即位することなく死去した)とする。(『古代政治史における天皇制の論理』(吉川弘文館、1986年)) 開皇20年(600年)『隋書』に、?國の「?王姓阿毎 字多利思北孤 號阿輩?彌」から初めて遣隋使がきた記事がある。なお『日本書紀』には同記事はない。「倭」を誤って「?」と表記したとする説が有力である。) 日本書紀では十七条憲法の直後の記事に「推古天皇十二年(604年)秋九月 改朝礼 因以詔之曰 凡出入宮門 以両手押地 両脚跪之 越梱則立行」とある。日本書紀は、十七条憲法と共に、役人は宮門を出る時、宮門に入る時は土下座、四つんばいになるように命じられたとしている。 日本書紀は随を大唐国としている。また、日本書紀には国書の内容(「日出る処・・・」)の記述はない。 『日本書紀』には遣隋使、隋という文字はない。『隋書』によれば、遣使の国書は「日出る処の天子、書を日没する処の天子に致す(「聞海西菩薩天子重興佛法」「日出處天子致書日沒處天子無恙云云」「卷八十一 列傳第四十六 東夷 ?國」)」との文言があり、隋の煬帝(開皇11年(591年)菩薩戒により総持菩薩となる)を「無礼である、二度と取り次がせるな」(「帝覧之不悦 謂鴻臚卿曰 蠻夷書有無禮者 勿復以聞」)と大いに不快にさせた(煬帝が立腹したのは?國王が隋の皇帝と同位の立場である「天子」を名乗ったことについてであり、「日出處」「日沒處」との記述にではないとする説がある。「日出處」「日沒處」は『摩訶般若波羅蜜多経』の注釈書『大智度論』に「日出処是東方 日没処是西方」とあるなど、単に東西の方角を表す仏教用語であるとする。)。この国書は?國が隋との対等の外交を目指したものであり、冊封体制に入らないことを宣言したものである。当時、隋は高句麗との戦争を準備しており、背後の?國と結ぶ必要があった。 『隋書』にこの記述はない。