ショート。外貨を売って保有している状態のこと。外国為替のポジションを売り持っていること。(⇔ロング)
謙信の部下は、謙信の食事を見ただけでもうすぐ戦に行くのかどうかが分かった、と言われている。これは、普段はあまり食べない謙信が、戦の前になるとかなりの量を食べたという理由からである。
夜行バスであり、子供は全員(景勝・景虎・政繁・国清)養子だった。
なお、謙信が若いときに敵将の上野・平井城主千葉采女の娘である伊勢姫と恋に落ち、家臣の柿崎景家らの猛烈な反対によって引き裂かれた後、娘は剃髪し出家したものの最終的に自害したため未婚を貫いたといった逸話は、興味本位の捏造譚でしかないという見方が一般的である。
謙信の女嫌いは、心理学的な観点から、母青岩院と姉仙桃院の影響とする説もある。幼少期に高潔な人格の女性から深い愛情を注がれて育った男性は、成長すると他の女性にも同じような高潔さを無意識に求めるため、次第に周囲の女性に幻滅して興味を示さなくなる傾向にある。両者とも仏教への信心厚く大変良く出来た
資産運用であったため、幼少期にこの2人から大事に育てられた謙信が、信仰心と相まって俗世間の女性に興味を持てなくなったのではないかと指摘されている。また、半陰陽説や女性説、毘沙門天信者の妻帯禁制を堅く守っていたとする説なども存在するが、いずれも俗説の域を出ず、少なくとも現段階においては確たる根拠が示されているわけではない。
大の
外国為替であったが、他人と酒を酌み交わすような飲み方を好まず、ひとり縁側に出て、梅干だけを肴に手酌で飲んでいたと言われる。
死因について、前述の通り過度の飲酒と、つまみの梅干による塩分の取りすぎによる高血圧が原因の脳溢血と言われている(雪の中、厠で倒れたと史料にあることも、死因が脳溢血だと考えられる一因である)。他に、厠で用を足していた時に信長の派遣で雪隠隠れをしていた刺客に槍で刺されて殺害されたという説、婦人病(詳細は上杉謙信女性説に記載)で亡くなったとという説や、酒の飲みすぎからくる胃がん、食道がん説、織田信長にヒ素で毒殺されたなどの説もある。
戦国大名として
外国為替証拠金取引は織田信長と対抗できる最後の一人だったため、当時からその死は相当な衝撃を与えたようである。謙信の葬儀は3月15日に執り行なわれたが、このときのことを「北越軍談」はこう記している。「家門・宿老・侍隊将・奉行・頭人・近習・外様、出棺の前後を打囲て行列の姿堂々たれ共、獅竜の部伍に事替り、衆皆哭慟の声を呑み、喪服の袂を絞りければ、街に蹲る男女老若共に泪止め兼ねたり。彼五丈原の営中、赤星(諸葛亮)落て蜀軍傾覆するが如く、春日山の郭内は云にや及ぶ、城下に来り集る将士、宛然航路に楫を失ひ、巨海の波に漂ふに斉し」
戦では無類の強さを発揮した謙信が天下を取れなかった理由は越中の一向一揆に手間取ったこともあげられる(謙信は仏を信仰していたが、信仰していたのは真言宗)。同じく北陸の大名であった朝倉氏も加賀の一向宗に悩まされ地盤を越えた戦略を取ることが出来なかった。
評価
軍事能力に卓越しており、「越後の龍」や「軍神」などと後世で評されている。一般には謙信は天才型で、迅速な用兵と駆け引きの的確さから生涯殆どの戦で勝利をおさめたという見方が強い。天正4年に甲斐の僧・教賀が長福寺の空陀に送った書状によれば、宿敵たる武田信玄も常々謙信をして「日本無双之名大将」と評していたそうである。
謙信と他大名との鉄砲、弓、馬などの軍事編成の比はさほど差異はなく、戦術的にも大きな違いはない。だが、上杉軍は敵と敵のぶつかりあい、直接戦闘では圧倒的な強さを誇っていた。上杉軍の強さは、謙信の死後も、織田信長の支配地域において「武田軍と上杉軍の強さは天下一である」と噂されるほどのものであった(大和国興福寺蓮成院記録・天正十年三月の項を参照)。つまり、日本全国の情報が集まる戦国時代の京都周辺の人々にとって、「武田軍と上杉軍が日本最強」ということはほとんど常識であり、謙信の死後もその評価が揺らぐことはなかったということである。その生涯で約70回もの合戦を行い、敗北は僅か2回と伝えられ、野戦に限れば北条氏康との生野山合戦の1回のみとされる。「謙信公御年譜」
軍事面で評されることが多いが、内政面に関しても大きな失政はなく、綿密に計画された金山運営で大きな利益をあげることに成功しており、また日本海側の海上交易の要衝としての利益も大きかった。これらのことから一概に「戦上手の内政下手」とは言えない(補足として、謙信の年貢の収納高は推定99万7000石、武田信玄は推定83万5000石で最盛期は100万石超。経済力では両者ほぼ互角である)。豊富な資金力を生かして民政面でも成果を上げており、太田資正は、「謙信の代になって越後の民衆の生活水準が劇的に向上しており、民を慈しむ優秀な領主である」と高い評価を下している。
野戦での電光石火で神がかり的な采配に比べ、城攻めには失敗し撤退することもしばしばあった(小田原城、臼井城、唐沢山城等)。小田原城といえば、巨大な総構えを持つ城塞都市というイメージが強いが、当時は総構えどころか、三の丸も存在しない程度の規模であった。小田原包囲と同時に行っていた玉縄城などの支城攻略も失敗に終わっており、その後の北条の逆襲を招く結果となった。武田・北条両大名家と繰り広げた長期に渡る大規模な持久戦で露呈した脆さは致命的であり、直接の対陣での敗北は殆ど無いにも関わらず、関東においては最終的に上野の一部以外は殆ど失ってしまった。
持久戦の弱さは、豪雪地帯から遠く補給線の貧弱な敵地に向けて長期的な軍事行動を取ることが不可能であり、それゆえに短期的な活動で多大な軍事活動を得なくてはならなかったことが原因であると見られる。また、直接の軍事行動で敗北は殆どなかったものの、占領地を直接支配しなかったがために謙信が帰国後するたび関東衆の離反を許すこととなり、北条・武田に対しての長期戦略は上野の一部を得るにとどまってしまった。結果として武田の北進を阻み、北条の躍進を停滞させるなど、国防に成功したものの、侵略の成果は乏しいものとなった。 + * 特に臼井城の攻防では原胤貞2千の軍勢に上杉1万5千の7倍以上であたったにもかかわらず、胤貞より指揮を受け継いだ軍師・白井入道浄三に大敗している。ただしこの合戦は一次資料による裏づけが存在しないため、議論の余地を残している。(出典:『歴史街道2007年09月号』、PHP研究所)
第四次川中島の合戦の直前、10万を超える東国の大連合軍を率いて一気に小田原城などに攻め込み北条氏を滅亡寸前まで追い詰めたが、隙をついて武田信玄が信濃にて軍事行動を起こした。だが、信玄は上杉氏諸将の不安をあおるために行動を起こしただけで本気で戦をする気はなかった(事実、上杉軍が動きを止めた後すぐに撤退している)。謙信は信玄の意図を見抜いていて作戦続行を主張したが、関東諸将の反対で撤退するしかなかった。一説によれば、武田信玄はこのことをさして「もしあの時、時間を置かず一気に小田原城を攻めていたら防御の十分でなかった城は陥落し、さしもの北条氏康も滅ぼされていたであろう。そうすれば甲斐の国も危なかった」と述べたと伝わる。また、足利将軍家を守るために三好・松永討伐を画策していた。上洛が出来さえすれば成功の可能性は高く(若狭・越中間は航路があり上杉氏には水軍もあったため加賀一向一揆は無視できた。また、幕臣である越前の朝倉氏・若狭の一色氏の協力は得られた可能性が高い)、謙信を警戒した三好・松永から大量の貢物を送られている。しかし、このときも家臣の反対で実行に移せなかった。いずれも謙信の電光石火・神出鬼没ぶりや戦術眼の高さがうかがえる逸話だが、家臣団の反対で中止せざるをえなくなっている所に謙信の限界があるとの意見もある。
有名無実な関東管領職にこだわり続けた面から、形式に拘る形式主義者、実質よりも権威を重んじる権威主義者、室町幕府体制の復興を願う復古主義者と評する声があるが、謙信の時代の関東甲信越や越後では畿内と違い関東管領職の権威はある程度通用したとの評もある。また、権威や管領職への敬意は、謙信の義理堅さをあらわしているとも言える。
一方で、大義名分を盾にし自己正当化をすることに拘り(合戦する際の理由で自身を正当化するのは秀吉や家康もしており当然ではあるが)、自身を毘沙門天の転生と信じるなど、天才特有の自己愛の強さの証左である、との評価も一部にある。また、名門への羨望があったからこそ、山内上杉家を継いだとも言える。
関東管領職という室町幕府の役職を全うし、多くの利益を期待できない関東出陣を行う(これについては、近年の研究で冬期に比較的温暖な関東に南下し、略奪を行う目的もあったという説もあるが、上杉家は経済的困窮がなく、略奪を行う理由に乏しい)。また、数々の戦いの多くが、村上義清、小笠原長時、上杉憲政らの旧領復権のための戦いであった。
生前に前もって後継者を決定しなかったとされ、謙信の死後、御館の乱勃発の引き金となった。これは上杉家にとって大きな痛手となり、以後衰退の道を辿っている。謙信時代に獲得した北国(加賀・能登・越中)の大部分は、後に柴田勝家によって奪われる。
謙信の義理堅さ、約束事に対する姿勢は大変有名で、北条氏康は彼について「信玄と信長は表裏常なく、頼むに足りぬ人物だ。謙信だけは請け合ったら骨になっても義理を通す人物だ。それ故、肌着を分けて若い大将の守り袋にさせたい」と発言している。ちなみに謙信の関東出陣回数は17回であり、どれもことごとく徒労に終わるものだったが、これも謙信の義理堅さを証明している。
また、武田信玄は死に臨んで跡継ぎの勝頼に「謙信は義理がたい武将なので、人に頼られれば決して見捨てる事はない。自分の死後は謙信を頼れ」と遺言したと甲陽軍鑑にはある。謙信は人に頼まれれば断れない性格だったようだ。
墓所・霊廟
謙信の遺骸は甲冑を着せて甕に納め、葬られたという。
遺骸は当初春日山城下の林泉寺に埋葬されたが、長尾上杉家の転封に伴って、若松城、ついで米沢城内に改葬されたとされる。明治維新後は米沢藩の歴代藩主が眠る上杉家廟所(山形県米沢市)に再度、改葬された。春日山林泉寺(新潟県上越市)と高野山にも墓が残されている。
江戸時代の米沢藩では謙信は藩祖として崇敬を集めた。明治5年(1872年)に米沢城本丸跡にが創建された上杉神社(別格官幣社)に上杉鷹山と共に祀られ、明治41年(1908年)9月9日、従二位が贈られた。